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Tsugaru-shamisen
津軽三味線のお話

津軽三味線はどのように生まれ、どのような特徴を持っているのでしょうか?
このページでは津軽三味線とはどんな音楽なのかをご紹介します。

津軽三味線の歴史

 

津軽三味線の始祖・神原の仁太坊

 

 津軽三味線が生まれたのは、現在の青森県北津軽郡金木町、時代は明治初頭といわれています。津軽三味線の始祖、つまり演奏スタイルの基礎をつくったといわれているのは、神原の仁太坊(にたぼう:本名・秋元仁太郎/安政4年〜昭和3年)という人です。

 当時、津軽地方では、門付けを行う男盲の芸人を「坊さま」(ボサマ)と呼んでいました。「門付け」(カドヅケ)とは、家々の門の前に立って行う芸能のこと。三味線を弾いたり、唄ったりして、その報酬として、お金や食料(米など)をもらうもので、門ごとに神が訪れて祝福を与えたという民俗信仰から生まれたともいわれています。

 

 仁太坊は、8歳の時、当時流行っていた天然痘で失明してしまいます。東北や越後などの寒冷地は厳しい自然環境の中で作物の実りも悪く、貧困や住環境の悪さなどから、生まれながらにして、あるいは仁太郎のように幼くして目や身体の不自由な人も多かったようです。

 階級差別が残る中、そもそも貧しいことに加え、さらにハンディキャップがあるこれらの人々は、津軽地方では、女は「イタコ」、男は「坊さま」としての修業を積み生きていくことを半ば運命づけられました。坊さまは生き延びて行くための手段として、唄や踊り、三味線などの芸事を身につけて人々に聞かせ、門付けの物乞いをする事で日々の糧を稼ぐしかなかったのです。

 

坊さま、イタコ、瞽女を起源とする津軽三味線

 

 話はそれますが、「イタコ」というのは、亡き人の言葉を伝えたり(口寄せ)、占い・予言を行うなど特別な能力を持つ人(シャーマン)のことです。しかし、実はイタコは霊能者という表向きをとっていますが、実際は心理カウンセラーの面が大きいようです。死者や音信不通となった人との縁を忘れられないでいる、あるいは時々思い出し供養に訪れる人々に対し、その気持ちを汲み取り話を聞くことによって、その心を和らげるのがイタコ信仰の本来の姿でした。したがってイタコを霊界との通信手段のようなオカルト的なものとする近年のマスメディアの紹介の仕方は、イタコに対する誤認を招くので問題視されています。

 

 津軽地方で目の不自由な男子が「坊さま」となったのに対し、生まれながら、もしくは、幼い時に盲目か盲目に近い弱視になった女の子は師匠のイタコに弟子入りし、苦行の末、イタコになったそうです。イタコの一部は交霊の際に、梓弓(アズサユミ)と呼ばれる弓状の楽器がよく使われました。

 そうした境遇において、イタコと坊さまは、共通する文化を持っており、津軽三味線には梓弓の演奏手法も取り入れられたといわれています。

 

 津軽三味線の創始に大きな影響を与えたのは、「瞽女」(ゴゼ)という女性の旅芸人でした。瞽女とは、目の不自由な女性何人かが一組になって村から村へ三味線を弾き、唄を歌って旅をする、いわば吟遊詩人です。瞽女は1年のほとんどを旅をしながら過ごし、目的の村に着くと、家々を門付けして歩き、夜は宴席で瞽女唄を披露したそうです。

 瞽女には相互扶助の「座」という組織があって、厳しい規律が定められていました。例えば、単独の門付け、結婚などは禁じられており、規則を破った瞽女は破門され、「はぐれ瞽女」あるいは「はなれ瞽女」といわれました。全国にあった瞽女の中でも、特に充実していたのが越後(現在の新潟県)瞽女だったそうです。

 

仁太坊、瞽女の手ほどきを受ける

 

 言い伝えによると、幕末の頃、一人のはぐれ瞽女が津軽の十三港より帆船に乗り、城下町弘前へ行く途中腹痛を起こし、神原の渡しにさしかかった時、絶えかねて下船したそうです。その瞽女を介抱したのが金木村(現在の金木町)の神原で渡し守をしていた仁太坊の父・三太郎。恩義を感じた瞽女は三太郎と夫婦になり、生まれた子供が仁太郎(後の仁太坊)でした。しかし、間もなく母は亡くなり、前述のとおり仁太郎は8歳で視力を失ってしまいます。

 盲目となった仁太郎は、また一人の瞽女との運命的な出会いを果たします。この女性から仁太郎は三味線と唄の手ほどきを受け、津軽三味線の基礎を会得しました。

 

 やがて、仁太坊はより聴衆を喜ばせる三味線を弾こうと研鑽を繰り返すうち、激しく三味線を叩くような演奏になっていきました。弦を切ったり皮を破いたり・・・それまでの細棹の三味線に限界を感じた仁太坊は、太棹の三味線に持ち替えることにしました。こうして仁太坊によって現在の津軽三味線のスタイルの原点が確立されます。

 門付けは、他人の真似事では何も貰えません。坊さまが生きていくには他人と違うことをしなければならず、それぞれ自分なりのオリジナリティのある技を身につけていった所以です。

 

放浪芸から進化した津軽三味線

 

 このように放浪芸だった津軽三味線ですが、やがて唄や踊りの伴奏として民謡の一座に加わり各地で興行をするようになります。元来、民謡の世界には「三味線は唄なり」という言葉があります。これは、唄の音程とテンポを忠実に守り、唄を引き立てるように伴奏するのが良い三味線であるという意味です。民謡の伴奏楽器として三味線が使われてかなりの間、三味線は唄の従的な楽器であったのです。

 しかし、こうした興行の中、「前弾き」(今でいうイントロです)という唄に入る前の三味線による即興演奏が人気となってきました。アドリブによる前弾きは常に新しいものを求められ、即興のソロ演奏はどんどん長くなっていきます。もちろん今でも唄の伴奏をする時は、唄を引き立てるように伴奏します。しかし、津軽三味線はこの枠からしだいに出て独自の表現ができる楽器となっていきます。ここが他の民謡伴奏の三味線と大きく異なる部分だといえるでしょう。

 

津軽三味線の演奏に使われる楽器と演奏スタイル

 

三味線という楽器

 

 三味線とは、太さが違う三本の糸を爪弾き、または撥(ばち)で弾くことによって音を奏でる楽器の総称で、別名「三弦」とも呼ばれます。

 元々の原型は中近東の弦楽器で、これがシルクロードを経由して中国に伝わったという説があり、中国では11世紀以降に三弦があらわれ、琉球(現在の沖縄県)へともたらされました。沖縄ではこの楽器を「三線(サンシン)」、または蛇の皮を用いて作られることから「蛇皮線(じゃびせん)」と呼び、爪弾きで演奏します。

 その後、室町末期(1560年前後)に琉球から堺港に伝わったこの楽器は、「三味線」と呼ばれるようになり、琵琶法師たちのアイデアによって様々な改良が加えられました。その一例として、より大きな音を出すことが可能な撥(バチ)弾きの登場や、日本本土に蛇が少なかったことから、胴の部分に張られる蛇皮に代わって犬皮や猫皮が用いられるようになったことが挙げられます。

 

 三味線は棹の太さによって「太棹三味線」「中棹三味線」「細棹三味線」の三種類に大別することができますが、さらに種目や流派などによって使用する撥の大きさや重さ、材質、音階、音質などが異なります。また、個人の好みや曲目によっても異なる場合があります。

 

津軽三味線演奏の特徴

 

 津軽三味線や人形浄瑠璃の伴奏(義太夫以外の流派は中棹三味線を使用)、浪曲の伴奏には、太棹三味線が使われ、特に津軽三味線は現在、太棹の中でも大型の「津軽三味線」を小ぶりの撥を用いて演奏するという特徴があります。元来、三味線は(撥)弦楽器ですが、津軽三味線の場合は、バチで激しく打ちつける打楽器的な要素が加わります。太棹三味線は、深く重みのある音色でかなりの大音量を奏することができるので、迫力のある演奏も可能です。

 

 また、最も大きな特徴は、先にも記述したように、それぞれの曲に基本となるリズムあるものの、アドリブで演奏されることです。津軽三味線にはいわゆる「正調」がありません。それは、ジャズのように奏者の個性や感情をアドリブで表現できる柔軟性や創造性のある音楽だからです。

 津軽三味線は、芸人同士の互いの競争の中で磨かれ、現在のようなスタイルに至っており、今も進化の途上にあるといえます。 

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